・ロマン・ロランのベートーヴェン第九 2026.1.31
寺院の内部にはいるまえに前庭のはしから眺めると、まずこの大建築の大要の線が眼にはいり、その巨大さに心をうばわれる。全体の線がベートーヴェンの天才の特質である壮大な簡潔さを失うことなしに――(もっとも美しいと思われるその第一楽章におけるほど、この簡潔さがきびしく示されていることはない)――楽想の提示と展開とが、思想の充溢をあかしだてるように、ながい経験のうちにはらまれたつねならぬ豊かさをみせている。――しかし『第九交響曲』とそれ以前の八つの交響曲とを区別しているものは、均整のとれた巨大な構成という外観や、終曲において楽器の堰をきって突然氾濫する声楽ばかりではない。内陣にはいってみてはじめてその本質的な差異に気づく。すなわち差異は実体そのもののなかにある。
他の八つの交響曲はいずれも生のある瞬間やひとつの重要な時間の直接的な表現である。――すなわち若々しい希望、愛、英雄的な行為、運命との悲壮な闘い、自然のなかでのまどろみ、森の大きな幽暗さの幻想的な喚起、憂いやディオ二ソス的なよろこび、あるいはたんに(まれにではあるが)気苦労から逃れて笑う精神のくつろぎ、などである。それぞれがある一日のベートーヴェン――ひとつのベートーヴェンである。
ひとつの生涯には多くの日々が含まれている。そしてひとりの人間にも――たとえベートーヴェンのように自己に忠実であり、終始変わらず、あたかも錆びない金属のようである場合にも――幾人ものちがった人間がいる。ひとりの人間しかみようとしない批評家たちは(最上の場合でも)横顔のひとつしかみていない。ベートーヴェンには――相反する情念が対峙した戦場(これはまだ感情の領域内のことである)のことはいうまでもなく――感情と思想との対立、情念と行動との対立があった。またそこには、今日の著名なベートーヴェン学者たちがただそれのみを重んずるという偏見をもってではあるが、正当にも讃えている《絶対》音楽家、独自の神秘的で専制的な芸術法則のみによって支配されている音楽家もいた。――またそこには、他の研究者たちがやはり排他的なやり方で証明しているように、思想的な人間、純粋ならびに実践的理性としての人間もいた。音という不分明な言語の謎だけでは満足せず、意識下の闇から《根本的真理》を引き出す言葉(ヽヽ)を〔すなわち謎のこころを〕、スフィンクスに強いて語らせようとした人間がいた――その《根本的真理》こそ彼の生命の主軸であり、美的であるだけではなく倫理的な彼の強い人格の支柱でもあった。その人間は彼の時代の信仰をともにし、彼の時代の行動に参加しようと望んでいた(望んでいたであろう)。なぜなら彼はその時代(彼が若かった時代)である革命的(ヽヽヽ)な「啓蒙」の時代、すなわち愛によって人類を結合させ、「神の王国」を手に入れさせるシラーの「歓喜」の時代、また、星々の上の(星々の円盤の上)大空と、カントが十戒板(ヽヽヽ)を示した道徳的〔定言〕命令が封じこまれている良心というもうひとつの空とに王座を占めている《いとしいい父》の時代の人間であった。――彼はまた、二つの世紀の曲がり角にまたがる三十年間(1780年から1810年)の、ドイツ思想の英雄的な時代の生き残りであり、自由で友愛にみちた人間性の到来を信じ、それをみずからの運命の究極の目的へとみちびこうとする、楽天的な大理想主義のドイツにおける最後の代弁者であった。狭量な信心ぶりで彼を《絶対》音楽という礼拝堂に閉じこめようとする弟子や讃美者たちに対しては、彼は同時代人であるフランスの大言語芸術家シャトーブリアンの抗弁、すなわち《言葉》ではなくて《事物》を述べる芸術家の権利を、――ベートーヴェンが生存中すでに比較されていたミケランジェロのように――憤然として要求した抗弁をもってこたえたであろう。
《文学をなにか抽象的なものとして、人間のいろいろな営みのまっただなかでそれを遊離させてしまおうとするひとびとがおります。……なんということでありましょう!数年間のうちに数世紀にもわたる諸事件をわれわれに経験させた革命をへた今日、道徳的な高い考察をすることを作家に禁ずるのでありましょうか!物事の重要な面を検討することを作家に禁ずるのでありましょうか!作家は文法上の下らぬ理屈をこねたり、雅趣の原則について論じたり、文学上のつまらぬ問題をあげつらったりして、浮薄な生活を送るべきものなのでしょうか!ゆりかごの産衣(うぶぎ)にくるまったままで年老いるべきなのでしょうか!……どんな重大な気苦労をしたために頭髪が白くなったというのでしょう?それは自尊心と、精神の幼稚なもろもろの戯れという、哀れむべき気苦労のためなのであります!……》
しかし芸術上や思想上のこれほどもあい対立した思索や意欲、いわば幾人もの異なった人間が、どのようにして綜合をなしとげることができたのか?それは天才の秘密である。しかし大芸術家において、四分の三以上に本能的ともいうべきやむにやまれぬ要求が、意識的で理性的な意志よりも、また自然の課する問題をかならずしも理解してはいなかった知性よりも、はるかに多く働いたであろうことは確かである。(ベートーヴェンの天才についてのロマン的な、あるいは低評価的な見方が信じこませていたより、はるかに発達し深められていた、その知性を過少評価しないよう気をつけよう!反証はあとであげる。)
しかし精神の諸力や矛盾しあう諸要求のそのような統合の奇跡を、おそらくベートーヴェン自身が説明できなかっただろうと考えても、けっして彼にとって不当ではない。――それならそれで結構!とにかく奇跡はなされたのだ。それは他人が真似ては危険な賭けごとであった。しかしその奇跡は存在した。それはひとつの事実である――そしてその事実こそ、『第九交響曲』なのである。
解説
ロマン・ロランによるこの文章は、ベートーヴェンの「第9交響曲」が、それまでの作品と何が違うのか、なぜそれほどまでに偉大なのかを熱っぽく説いたものです。
難解な表現を整理し、ポイントを3つに絞ってわかりやすく解説します。
1. 第9は「一日の記録」ではなく「一生の集大成」
ロランは、第1番から第8番までの交響曲を「ある一日のベートーヴェン」と表現しています。
第1〜8番: 「若さ」「愛」「自然」「絶望」など、人生の特定の瞬間や感情を切り取ったもの。
第9番: 彼の人生のすべて、矛盾する感情、思想、そして彼が生きた「時代」そのものを飲み込んだ巨大な建築物(寺院)である。
つまり、第9は単なる音楽作品ではなく、ベートーヴェンという人間の「魂の全記録」なのです。
2. 「音楽家」である前に「思想家」であった
当時の批評家たちは、ベートーヴェンを「純粋に音の美しさを追求する人(絶対音楽家)」として型にはめようとしました。しかし、ロランはそれに強く反論しています。
沈黙を破る「言葉」: ベートーヴェンは音という抽象的な言葉だけでは満足できず、第9の終楽章でついに「人間の声(合唱)」を導入しました。
理想主義の継承: 彼はカントの哲学やシラーの詩(歓喜に寄す)を愛し、「人類はみな兄弟になれる」という革命時代の理想を信じ続けていました。
芸術家の使命: ロランはシャトーブリアンの言葉を引用し、「芸術家は、文法のルールのような細かいこと(音楽理論)に閉じこもるのではなく、人間がいかに生きるべきかという重大な問題を語るべきだ」というベートーヴェンの強い意志を代弁しています。
3. 「矛盾の統合」という奇跡
ベートーヴェンの中には、相反する要素が共存していました。
激しい情熱 vs 冷静な行動
自由な芸術家としての本能 vs 理性的な思想家としての知性
普通ならバラバラになってしまうこれらの要素が、一つの作品として完璧にまとまっていること。ロランはこれを**「奇跡」**と呼び、その奇跡が形になったものこそが『第9交響曲』なのだと結論づけています。
まとめ:ロマン・ロランが伝えたかったこと
「第9を聴くことは、単に美しいメロディを聴くことではない。それは、一人の天才が苦悩の末にたどり着いた**『人類への愛と言葉』**という巨大な寺院の中に足を踏み入れる体験なのだ」
ロランは、ベートーヴェンを単なる作曲家としてではなく、暗闇から真理を引き出し、私たちに道を示してくれる**「精神の英雄」**として描き出しています。
この解説を踏まえて、改めて第9(特に第4楽章の合唱部分)を聴いてみると、ロランがいう「スフィンクスに語らせた言葉」の重みがより深く感じられるかもしれません。