優しさと受け入れる気持ち
慈しみ
慈しみという心は、穏やかな日々を送る上で不可欠なものです。美しい風景に心を打たれるように、他者を思いやる行動にも、私たちは感動を覚えます。例えば、誰かのために祈る姿や、一つのことに熱中する姿は、私たちに温かい気持ちをもたらします。
慈しむ心を持つことは、容易なことではありません。完璧な人間などいないからです。しかし、どんなに小さなことでも、他者への思いやりを表現する努力は、必ず報われるでしょう。それは、相手だけでなく、自分自身をも癒やしてくれる力を持っているからです。
困難な状況に直面した時、人はつい自分中心的な考えに陥りがちです。しかし、一歩立ち止まり、周囲の人々のことを思いやることで、私たちは新たな視点を得ることができます。慈しむ心は、私たちを苦しみから解放し、より豊かな人生へと導いてくれるはずです。

私のエピソードについて記述します。
随分昔になりますが、45歳で独身の同僚が一人暮らしのアパートで亡くなりました。発見された彼は、仰向けに倒れており、死因は糖尿病の急激な血糖値低下によるものと診断されました。彼の姉は、弟の孤独な死に大きなショックを受け、私たちも深い悲しみを感じました。
四十九日法要には、姉の傷心も少し癒え、私たちも参列しました。宗派は浄土真宗でした。法要では、僧侶が「贅沢をせず、他人を思いやる心を大切にする」という教えを説きました。しかし、現代の弔いは、形式的なものが多くなっているように感じます。
一方、東日本大震災の際、瓦礫の中で手を合わせる若い僧侶の姿を見て、私は深い感動を受けました。彼の純粋な信仰心と、被災者への慈悲の心は、現代社会に生きる私たちに、多くのことを教えてくれるように思います。
寛容
嫌な思いをすることの多い世の中、ストレスが溜まるばかりで、一喜一憂せずに生きられたらいいのですが。私たちには、知らないことで悩むことが多くあります。友人に相談する、本を読むなどで何とか悩むことを止めようとします。でもことの本質は「人」で、「人」を多く知ることで寛容になれると思います。寛容さに欠けることが多く、一喜一憂しないため私は今でも日々勉強中です。
私のエピソードや感じたことなどをブログにつづってゆきます。