哲学用語解説(Philosophical Glossary)
【あ]
アウフヘーベン(Aufheben)(ヘーゲル)――ある主張(テーゼ)とそれを否定する主張(アンチテーゼ)のそれぞれの立場を理解し、矛盾や反対の主張を受け入れ、より高い次元の考えを生み出すことを、アウフヘーベンといいます。そして、生み出されたものをジンテーゼといいます。
アプリオリ(Apriori )(カント)――人間全員が持つ共通の経験の仕方(感性の形式)、理解の仕方(悟性のカテゴリー)が存在していて、その理解の仕方をアプリオリと言います。
アポステリオリ(Aposteriori)――経験を通じて得られる認識や真理。アプリオリとの区別は認識論における大きな争点。
アンガージュマン(Engagement)――サルトルは、理想に向かって積極的に社会に参加し、みずからの手で理想を実現することと訴えました。そのように理想に向かって、積極的に社会に参加することをアンガージュマンと言います。
アンチテーゼ(Antithesis)(ヘーゲル)――ある主張(テーゼ)に対して、それを否定する主張をアンチテーゼといいます。
アンチノミー(Antinomy)(カント)――正反対の主張が同時に証明されてしまって、人間では結論が出せないものをアンチノミーといいます。例えば、以下の2つはどちらも論理的には説明出来てしまうため、人間の理性では結論が出せません。こういったものをアンチノミーといいます。
「この世は有限である、 この世は無限である 」
【い】
イギリス経験論(British Empiricism)(ベーコン)――知識や観念はすべて五感(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)を通じて得た経験によるといった考え方をイギリス経験論といいます。人は生まれつき、知識や観念をもっているという考え方と対立しました。
一次性質(Primary Properties)(ロック)――人間の五感に関係なく、そのもの自体の性質のことを一次性質といいます。例えば、りんごの大きさや、形、重さは、人間がいてもなくても、りんごが持っている性質です。それに対して二次性質(Secondary properties)は、匂いや色、味等の人間の五感を通して認識する性質をいいます。二次性質は人間がいなくては成り立たないものです。
一般意志(General will)(ルソー)――みんなが持っている助け合いの心のことを一般意志といいます。ルソーはみんなでよく話し合って、共通の利益となるような一般意志を確認し、政策を決めていく直接民主制がいいと言いました。この考え方は後のフランス革命につながったと考えられています。
イデア(Idea)(プラトン)――人は生まれる前から愛、正義、円の形それぞれの理想の姿を知っていて、その理想の姿をイデアといいます。
イデア界(World of Ideas)――プラトンはイデアが頭の中にあるだけではなく、イデアが存在する世界がありそれをイデア界と呼びました。そして、私達が住んできる世界を現象界としました。そして、現象界にあるものは、模造品(ミメーシス)に過ぎないと考えました。現象界の善、美、正義などはイデア界の模造品であるとプラトンは考えました。
イドラ(Hydra)(ベーコン)――思い込みや偏見をイドラと言います。4つのイドラがあり、正しい知識を妨害すると言われています。
種族のイドラ人間の感覚による偏見、目の錯覚とか、擬人化してしまうとか。洞窟のイドラ育った環境による、狭い考え方からの偏見、家庭環境、読んだ本の影響とか。市場のイドラ人が集まるところでの聞き違いや、噂話などによる偏見、インターネットの情報、噂話、聞き間違い。劇場のイドラ有名人や偉い人の言葉を信じてしまうことによる偏見、偉い人の言葉。
意識(Awareness)――哲学用語のなかで、おそらく、もっとも説明しにくいものの一つである。
内的な、心的生活によって体験されるものの全体が、意識とよばれるのである。 意識は、人間の社会生活の過程で形成され、発展したのであるから、言語と分かちがたく結び つ いている。言語の働きによって、個人の意識に客観的表現が与えられ、あたかも、物質的世界から独立した「意識の世界」というものがあるかのような外観が与えられた。
その結果、哲学史上ではしばしば、物質と意識をまったく起源のことなったものとして対立させる二元論的見解や、また逆に、意識の世界を根源的なものとみなし、これから出発して物質的世界を説明しようとする観念論的見解が生れた。こうして、物質的世界から切りはなして意識をとらえようとする傾向が、今日なお根深く残っており、意識とは何か、ということの理解をさまたげているのである。
イデオロギー(Ideology)―― 「観念形態」と訳される。内容的には、道徳・芸術・宗教・哲学、および、社会・政治・法などについての諸理論をさす。これらのものは、精神的活動に従事する一定の人びと(イデオローグとよばれる)がそれらを生みだそうとする目的をもっておこなった活動の結果として生みだされたものであり。この点で、一定の社会集団が自然発生的に生みだす「社会心理」とは区別される。
しかし、イデオローグたちは、それぞれ、一定の歴史的時代に生き、一定の階級に属しているので、彼ら自身が永遠の真理を探究しているつもりでいる場合でも、彼らの精神的活動の所産は、その時代を階級の性格を不可避的に反映している。このような見地からとらえた場合に、これらの精神活動の所産が、イデオロギーとよばれる。
因果律(Causality)―― 一定の原因があれば必ず一定の結果が生じる、原因なしには何ものも生じないし、何らかの出来事には必ずその原因がある、という法測。
一元論(Monism)――世界は一種類の実体によって成り立つという立場。唯物論や汎神論、スピノザの一元論などがある。
【え】
演繹(えんえき)(Deduction)――推理の一種、一般的なものから特殊的・個別的なものを導きだす推理、その主要な形式は「三段論法」(syllogism)である。
例えば、「すべての金属は電導体である」(大前提)、「銅は金属である」(小前堤)の二つの判断から、「銅は電導体である」(結論)という判断を導きだすのが、 その典型的な実例であって、この場合に、大前提は「すべての金属」に関する一般的な知識であり、これから「銅」という特殊な金属に関する知識が結論として引き出されている。だが、このような場合に、そもそも大前提としての一般的な知識がどのようにして獲得されるかが、疑問になる(→「帰納」)。大前提となる知識が与えられている限り、演譯は、厳密な推理として有用である。
永劫回帰(Eternal Recurrence )(ニーチェ)――永劫回帰は、ドイツの哲学者ニーチェの根本思想のひとつで、人の生は宇宙の円環運動のように永遠に繰り返すと説くものです。
遠近法主義(Perspectivism)(ニーチェ)――遠近法主義とは、認識論の用語で、絵画の遠近法と同様に、認識は特定の立場によって制約され、普遍妥当的な認識は不可能とする相対主義的な立場です。
英知界(World of Wisdom)(カント)――私たちは五感を通して、世界を見ているため、本当の世界の姿を見ることはできません。その本当の世界を英知界と言います。そして、英知界には、道徳法則というものが存在して、人の心に対して、良心の声を訴えている。
エポケー(フッサール)――当たり前に存在している物事を一旦かっこにいれて疑ってみることをエポケーといいます。物事の(ある)の(ある)を疑うことは、物事を根本から捉え直す手段で、あるという確信の根拠をつきとめる手段とも言えます。フッサールは、エポケーで物事を一番根本から捉えなおすことが大切だと考えました。
エイドス(Eidos)――ギリシャ語で「形相」や「本質」を指す言葉。アリストテレスの形而上学で質料(ヒュレー)と対応して論じられる。
縁起(Pratītyasamutpāda)――仏教の基本教義。あらゆる事物・現象は相互に依存して起こり、固定的・独立的な実体はないとする。
【か】
懐疑(Skepticism)――疑うこと。
懷疑論(Skepticism)――確実な認識は何一つない、と主張し、したがって、すべてのことについて、そうであるらしい、とか、そうでないらしい、とかしかいうことができない、と主張する理論。
懐疑主義(Skepticism)――確実な知識や客観的真理を懐疑する立場。古代ギリシャのピュロン主義やデカルトの方法的懐疑などがある。
カテゴリー(Categories)――「範疇」と訳されるが、字がむつかしいので、最近は「カテゴリー」ということが多い。元来、「述語」という意味のギリシァ語に由来する言葉で、同一の性質のものの属する部類をいう。「いるか」と「人魚」とはカテゴリーがちがう、とか、「人魚」と「天馬」とは同じカテゴリーに属する、などという場合は、この意味である。そこから転じて、「基本概念」を意味するようになった。
カテゴリー錯誤(Category Mistake)――リルの用語。ある概念をそれが属さないカテゴリーに無理に当てはめる誤り。例:大学を建物の集合としてしか捉えないなど。
感覚(sense)――外界の事物からくる刺激が感覚器官によって受けとられ、神経の興奮に転化されて、大脳皮質に伝達される、その結果生じるものが感覚であってそれは、外界の事物の意識内への直接的反映である。
感覚論(Sensory theory)――認識論上の一つの学説であって、一切の観念の起源は感覚に、そして感覚のみにある、と主張する。
感性(Sensibility)→「理性」の反意語
価値(value)――あたい。ねうち。ある事物、存在を、それが人間の一定の実践的、および理論活動にとってどのような意義をもつか、という見地から考察するとき、その意義を価値という。価値は、それが評価される見地のちがいによって、道徳的価值、美的価値などにわかれる。
観念(Concept)――人間の心(意識)は、外界の事物(山、机、犬、人など)を思いうかべる働きをもつ。この働きによって思いうかべられたもの、すなわち、心の中に形成された事物の像(山、犬などの像)が観念である。さらに、これらの具体的な事物についての観念から、抽象作用によって、「物体」、「性質」、「色」、「音」などの、さらにまた、 「善」、「悪」、「快」、「苦痛」、「希望」、「不安」などの、さまざまの抽象的観念がつくられる。要するに、人間の意識内に生れる一切の内容は、すべて観念である。
観念連合(Association of ideas)――観念と観念との結びつき、という意味、連想ともいう。連想学派とよばれる心理学の一派では、心理作用の根本は連想であると考え、観念と観念とがいかに結びつくかということの法則(すなわち、観念連合の法則)でもって、すべての心理現象を説明しようとした。
観念論(Idealism)――唯物論に対立する。物質・自然と観念・精神との関係をどう考えるか、という問題は、哲学の根本問題とよばれている。この根本問題にどう答えるかによって、唯物論と観念論とがわかれる。
観念論は、観念・精神が第一次的、根源的であり、物質・自然はこれから派生したもの、第二次的なものである、と主張する。すなわち観念論は、観念的・精神的なものから物質的世界が生れた、と主張するのであるから、素朴な神話的なものにせよ、あるいはこみいった議論をひねくりまわしたものにせよ、とにかく何らかの仕方で、世界創造を認めることになる。――さらに、観念論の中で、超個人的な精神(これは、あるいは「神」と、あるいは「世界精神」などとよばれる)を根源と認めるものは客観的観念論とよばれ、個人的な精神(すなわち、人間の意識)を根源と認めるものは、主観的観念論とよばれる。
概念(concept)――「馬」、「山」、「国家」、「波動」などのような、一般的なものをあらわす観念を概念という。例えば、一匹の馬をみると、われわれはその馬についての感覚をうけとる。別の馬をみても、やはりその馬についての感覚をうけとる。馬には、 栗毛の馬も黒馬もあるし、競馬用の走ることの速い馬もあれば、荷馬車用の力の強い馬もある。だから、馬についての感覚は、それぞれの場合にちがっている。だが、全然ちがっているのでもなくて、いろいろな馬についての感覚には共通点もたくさんある。そこで、馬についての感覚が何回もおこなわれると、われわれはそれらの感覚に共通のものを抽象して(→「抽象」)、すべての馬に共通の、一般的特徵だけをひとまとめにして、一つの観念をつくることができるようになる、これが「馬」という概念なのである。
――以上に述べたことは、概念とは何か、ということを説明するためのものであって「概念の形成」に関する理論としては不完全なものである。「馬」、「山」などの日常的概念ではなく「力」、「波動」、「価値」、「国家」というような科学的概念になると、それらがどのようにして形成されるかという問題は、ますますむつかしい。
感性の形式(Forms of Sensibility)(カント)――物事を「空間的」「時間的」に認識する人間共通の経験の仕方を感性の形式と言います。
人は五感から得た情報より、物事を「空間的」「時間的」に捉えるとカントは言います。そして、時間と空間は現実にはなく人の頭の中だけに有ると言っています。
神即自然(God is nature)(スピノザ)――自然は神そのものという考え方を神即自然といいます。そして、人間は自然の一部であり、人間は神の一部であるとスピノザはいいました。また、このような神と世界は同一であるという考え方を汎神論といいます。
解釈学(Hermeneutics)――テクスト(テキスト)や文化現象を「解釈」する学問。ガダマーらが人間存在そのものが解釈的であると主張。その歴史は古代ギリシャにまで遡ります。
ガリレオ的世界観(Galilean Worldview)――近代科学革命以降の世界理解。定量的・数学的法則を重視し、感覚的質感を二次的なものとみなす。
科学哲学(Philosophy of Science)――科学的な理論や方法、実在論・反実在論などの問題を哲学的に考察する領域。クーン、ポパーらが著名。
【き】
客觀(Objective)→「主観」の反意語
客観的観念論(Objective idealism)――個人の意識から独立に存在している、何らかの精神的・観念的存在を認め、それが一切のものの根本原理であるとする見解。この客観的な精神的原理は、あるいは「神」とよばれ、あるいは「世界精神」、「宇宙霊魂」、「絶対的理念」などとよばれる。物質的世界は、この精神的原理の所産である、とされるから、何らかの仕方で、世界創造を説くことになる。こみいった哲学的議論をくりひろげている場合でも、結局それは、神話的な世界創造のお話と同じことを主張しているにすぎない。
教義(Doctrine)――一定の宗教の信仰内容が真理として公認され、秩序づけて述べられたもの。「教理」ともいう。
規範(Norms)―― 思考または行為がしたがわなければならない(つまり、それにしたがわなければ、誤りをおかしたり、混乱をおこしたりするだろうところの)規則。事実そうなっている、という事実法則とはちがって、これこれであるべし、とされている法則。
帰納(Induction)――帰納推理の一種、特殊的・個別的なものから一般的なものを導きだす推理、 例えば、「銅は電導体である」、「銀は電導体である」、「ニッケルは電導体である」のいくつかの判断から、「すべての金属は電導体である」という結論を導きだす場合がそれである。この場合のように、金属元素の数が有限である場合には、そのあらゆる種類を実験しつくすことができるから、帰納が完全に成立する。
しかしより多くの場合に、特殊的・個別的なものの数は無限であると考えねばならない。例えば、「すべての人間」という場合には、将来生れてくるあらゆる人間を念頭におくから、その数は無限になる。このような場合には、過去においてどの人も死んだ、という事実だけからの帰納によって、「すべての人間は死ぬ」という結論をだすと、その帰納は不完全帰納になる。完全帰納が成立するのはむしろまれであり、ここに帰納推理の弱い点がある。
義務論(Deontology)――行為の善悪を結果ではなく、行為そのものの遵守すべき義務・法則に基づいて判断する倫理理論。カントが代表。
家族的類似(Family Resemblance)――ウィトゲンシュタイン後期の概念。定義できない概念でも、多様な用法がゆるやかにつながる共通点を持つことを指す。
【く】
空(Śūnyatā)――大乗仏教の核心概念。すべての事物は固定した実体を持たず、相依性のみがある状態を示す。
【け】
経験(experience)――人間が外界の事物に接触した結果、獲得する一切のもの。何よりもまず感覚にはじまる。感覚だけを経験と解する立場と、感覚内容に理性的な働きの加わったものを経験と解する立場とがある。
経験論(Empiricism)――知識の源泉を感覚経験に求める立場。ロック、バークリ、ヒュームらが主唱。対比概念は合理論。
啓示(revelation)――人間の知的能力だけでは知ることのできない神秘的な知識を、神の側から人間にあらわし示すこと。「黙示」ともいう。
形而上学(Metaphysics)――本来は、存在を存在として取り扱う学問を意味した。それが個々の存在物(感覚的経験の対象)ではなく、それらを超えた「存在一般」を取り扱うことから、経験的・実証的知識の及ばない事柄について論ずる理論を、非難の意味で形而上学とよぶことがある。 また、このような形而上学が、事柄を一面的にとらえる傾向があったことから、 ヘーゲルによって、「非弁証法的」な考え方が「形而上学的」とよばれた。その用語法にしたがって、マルクス主義の文献では、「形而上学的」という言葉は、もっばら、「非弁証法的」という意味で使われている。すなわち、事物を他の諸事物との連関から切りはなして孤立的にとらえ、また、発展的なものとみないで固定的なものとみなす考え方が、「形而上学的」な考え方とよばれる。
形而下学(Physics / Natural Philosophy)――形而上学の対比として、物理的世界や自然現象を探究する領域。近代以前は自然哲学とも呼ばれた。
形相(Appearance)→「質料」の反意語
現象(phenomenon)――①あらゆる出来事、事実をいう。「自然現象」とか「社会現象」という場合の「現象」はこの意味である。②本質に対して用いられる場合には、事物の外に現れている、変化しやすい、不安定な側面をいう。これに対して「本質」とは、同じ事物の、内面的な、変化しにくい、安定した側面のことである。現象は、外に現れている側面であるから、われわれの感覚器官によって直接にとらえることができる。
現象学(Phenomenology)――フッサールが創始。意識に直接現れる「現象」を厳密に記述し、本質を探る哲学的方法。
言語論的転回(Linguistic Turn)――現代哲学で言語の分析が中心的テーマとなり、認識論や存在論を言語という観点から再考する動き。
【こ】
構造主義(Structuralism)(ストロース)――人間の行動は、社会や文化の構造によって決められるという考え方を構造主義と言います。レヴィ=ストロースは、人間は社会や文化の構造により、主体性も決められていると考え、サルトルの人間は自由であり主体的に行動することが大切というアンガージュマンの考え方とは違う考え方を提唱しました。
悟性――英語のUnderstanding、ドイツ語のVerstandの訳語である。ともに「理解する」という意味の動詞understandと verstehenからでた言葉であるから、「理解力」とでも訳せばわかりよかったろうが、明治時代以来「悟性」という何のことかわからぬ言葉が用いられている。
能動的な認識能力である理性(→「理性」)をさらに、悟性と狭い意味での理性とにわける。その区別に関してはさまざまの説があり、したがって「悟性」が一面的な規定に固執する低い認識能力であるのに対して、「理性」は対立的な規定を統一して対象を全面的に認識するより高い能力(真理を把握する能力)である、とする説もあれば、逆に「悟性」は感性によって与えられた素材の範囲にとどまる堅実な能力(真理を把握する能力)であるのに対して、「理性」は与えられた素材の範囲を超えることによって不可避的に誤りにおちいる、とする説もある。
合理論(Rationalism)――知識の主要な根拠を理性や論理に求める立場。デカルト、スピノザ、ライプニッツらが代表的。
コギト(Cogito)――デカルトの有名な命題「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」に登場する「思考する私」を指す概念。
功利主義(Utilitarianism――行為の善悪を「最大多数の最大幸福」という基準で判断する立場。ベンサムやミルが代表的思想家。
言語ゲーム(Language Game)――ウィトゲンシュタイン後期の用語。言語の意味は、それが使われる具体的状況=ゲームのルールで規定されるという考え。
【さ】
三段論法(syllogism)→「演譯」
差延(Deferral)(ハイデカー)――一瞬前の人や物事は今の人や物事とは違うものですが、変化してもそれを同一のものとして見なすことを差延と言います。
【し】
思考(cogitation、thought)――考えること。ただし、日本語の「考える」という言葉は広い意味をもっていて、曖昧である。「去年の夏に山へ行ったときのことを考える」という場合の 「考える」は、「思いうかべる」という意味で、哲学用語では、「表象する」という。「わたしの考えるところによれば、彼女は幸福らしい」という場合の「考える」は、他人は別のように考えるかもしれないという可能性を認めているのであるから、哲学用語では、「私念する」という。
これらと区別して、哲学用語で「思考する」というのは、積極的に理性を働かせて判断したり、推理したりする場合の「考える」であって、何人もその結果を認めるであろうことを予想している。「この答えはまちがっている。もっとよく考えなさい」とか、「なんとかしてこの困難を克服したい。いまその方法を考えているところだ」などという場合の「考える」がすなわち「思考する」という意味である。
思考経済の法則(The Law of Thought Economy)――科学的認識とは経験的事実を記述するものである、という見解のもとに、科学は、できるだけ多くの事実をできるだけ少数の概念を用いてしかも完全に記述するという方向に発展する、すなわち、人間の思考をできるだけ「経済的」ならしめようとする法則(思考経済の法則)が科学の発展を支配している、というマッハの主張によって提案された法則。きわめて主観主義的なもので正しくない。
自然法(Natural Law)――人間の作った法にたいして、自然に由来する法がある、と考え、そのような法を「自然法」とよぶ。この見解によれば、自然法は、あらゆる社会にあてはまるもの、または、あてはまるべきものとされる。実在する社会において自然法がおこなわれていないとすれば、その社会は悪い社会だ、ということになる。
主観(Subjective)―― 「客観」にたいする言葉。人間が何かある事柄を認識するとき、知るものの間と知られるものの側とを区別して、知るもの(人間の心、 意識、頭脳の働き)の側を「主観」といい、知られるもの(そのとき問題にされている事柄、物、 出来事、すなわち対象)の側を「客観」という。したがって、「主観」とは人間の頭の働き、および、頭の働きによって考えられたもののことであり、「客観」は、人間の頭の働きの相手側にあるもの、自然や社会のなかに実在している(実際にある)もののことである。――このことから、個人個人の頭脳の働きに依存しているものは「主観的」だといわれる。
主観的観念論(Subjective idealism)――物質的なものであれ、精神的なものであれ、すべての客観的なものを、個人の意識内容に帰着させる見解。この見解によれば、存在とは個人の観念の別名にすぎない、ということになる。この見解の代表者、ジョージ・バークリは、「在るということは知覚されていることである」といった。なお、「客観的観念論」および「内在論」を参照。
主体(Subject)――客体に対して用いられる言葉、人間がある行為または認識をする場合に、何ごとかをする、または知るという働きをするものの側と、その働きをされるものとの側をわけて、前者を主体といい、後者を客体という。認識の場合には、 「主体」と「客体」の代りに、「主観」と「客観」という言葉を使うことが多い。英語では、「主体」も「主題」もともにsubjectであり、「客体」も「客観」もともにobjectある。
照明説(Illumination theory)――真理の認識は、人間の独力によっては不可能であり、神の側からの啓示 (→「啓示」)によって、すなわち、神の光に照らしだされることによって、はじめて可能になる、と主張する説。
真理(truth)――ほんとうのこと。ありのままの事実。「真実」に同じ。そこからさらに、ありのままの事実をとらえている観念・思想を「真理」という。すなわち人間のもっている観念または思想(観念の集り)が、ありのままの事実(人間の意識の外にある客観的実在)に一致していれば、その観念または思想は真理であり、一致していなければ、虚偽である。
実在(Real)――真実の存在、という意味。「存在」というなかには、架空の存在、空想上の存在、伝説的存在等が含まれる。真実の存在をそれらから区別するために、「実在」という言葉を使う。ただし、何を実在と考えるかは、説によって異となる。感覚的個物を実在とみるのが普通であるが、逆に、観念的普遍こそが実在である、と主張する説もある。
実在論(Realism)――観念論(Idealism)に対立するが、しかし唯物論(Materialism)にまでいたらぬ不徹底な見解。感覚的個物、経験的事実を重視する傾向をもつが、意識から独立した物質の存在を認めるかどうかが、必ずしも明瞭でない(それをはっきり認めれば、唯物論になる)。
実践(Practice)――行うこと、人間が、何かある一定の目的を実現しようとして、対象(自分のまわりにある自然や社会)に働きかけ、これをつくりかえること。
実存主義(Existentialism)――人間存在とは何か、ということは、対象的に把握することはできず、人間である自己が自己の存在を主体的に生きることによってのみ、主体的真実として自覚される、という立場から、人間存在が「実存」とよばれる。実存の自己解明こそが哲学の任務である、とする見解が実存主義である。
実体(entity)――他のものに依存して存在するのではなく、それ自身で存在するもの。何が実体であるか、ということについては、古くから哲学者たちのあいだに多くの意見の対立があるが、何が実体であるかを明らかにしようとして努力する、という点では、 ほとんどすべての哲学者が一致している。
実存の三段階(Three Stages of Existence)――キルケゴールが論じた人生観の三形態。美的実存、倫理的実存、宗教的実存へと深化するとされる。
人格神(God of Personality)――神が、自己決定的、自律的な意志をもつ、という意味で一つの人格である、とされている、そのような神。
実用主義(Pragmatism)――思想や概念の真理性は、その実践的効果や有用性によって測られるとする立場。パース、ジェイムズ、デューイらが代表。
純粋理性(Pure Reason)――カントが区別した「経験に依拠しない理性の働き」。形而上学的対象を思考するが、その限界を指摘する。
実践理性(Practical Reason)――カントの概念。道徳や倫理に関わる人間の理性の領域。道徳法則(定言命法)を打ち立てる力を持つ。
自然主義的誤謬(Naturalistic Fallacy)――「あるがままの事実」(自然)から「あるべき」(価値)を直接導く誤り。G.E.ムーアが指摘した。
死への存在(Sein-zum-Tode)――ハイデガーの用語。人間(Dasein)は死を意識することで本来的な実存へと向かう存在であるという思想。
社会契約説(Social Contract Theory)――ホッブズ、ロック、ルソーらが提唱。国家や政治権力は、個人間の契約や合意によって成立するという思想。
史的唯物論(Historical Materialism)――社会の構造や歴史の展開を、生産手段と生産関係(下部構造)によって規定されると見るマルクスの理論。
私的言語論(Private Language Argument)――ウィトゲンシュタインの議論。他人から検証できない純粋に内面的な言語は成立し得ないとする考え方。
仁(Ren)――孔子が説く中心徳。他者への思いやり・愛をもって人間関係を円滑にする道徳的指針。
【す】
推理(Deduction)――推論ともいう。一つまたはいくつかの判断から、新しい判断を導き出すことを推理という。その場合に、あらかじめ与えられている判断を「前提」といい、そこから導き出される判断を「結論」という。
もちろん、推理には、正しい推理と、あやまった推理とがある。例えば、「魚は水の中にすむ」、「クジラは水の中にすむ」というから、「クジラは魚である」という結論を出すならば、それはあやまった推理である。この場合には、前提としての二つの判断はともに真であるが、推理の形式が正しくないために、偽なる結論が出たのである。
また、「戦争放棄を設定した憲法をもつ国は軍隊を持たない」、「日本は戦争放棄を設定した憲法をもつ国である」、故に「日本は軍隊をもたない」という推理もあやまっている。これは、推理の形式は正しいが、前提の中の前の判断が偽であるために、偽なる結論が出る場合である。(→「演繹法」、「帰納法」)
ストア派(Stoicism)――ギリシア・ローマの哲学派。自然の理性に従い、感情に乱されない「アパテイア」を理想とする。
【せ】
性格(Personality)――ある物・人・出来事などの基本的な特徴を、性格という。「性質」という場合には、通常、一つの事柄についていくつもの性質が予想されている。ある人について。彼はこれこれの悪い性質をもっている、という場合には、その人が同時にいくたの良い性質をももっている、ということを排除していない。だが、彼は性格が悪い、という場合には、その人を全面的に悪く評価しているのである。
つまり性格とは、一つの事物のもっている多くの性質を総合的にとらえて、その事物を全体的に特徴づけているところのものである。
世界観(Weltanschauung)――世界(自然および社会)についての統一的な見解。「世界とは何か」という問いに答えるもの。ただし、ここでいう世界には、自己が含まれている。すなわち。世界をただ向う側において眺めるのではなく、その中で自己が実践活動をおこなう場としてとらえ、したがって、世界における自己の、役割の理解をも含むものが世界である。その説に、ある人が如何なる世界をもつかによって、その人がどのような生き方をするか、世界にたいしてどのように積極的または消極的な態度をとるかが、影響される。
世界観には、個人的な見解や気分にもとづくものもあれば、諸科学の成果に立脚して、それを概括することによってえられたもの(科学的世界観)もある。なお、世界をただ対象として、自己と無関係に向う側において眺めた場合に形成される、世界の全体についての見解を「世界像」とよぶ。
絶対精神(Absolute Spirit)――ヘーゲルの哲学における最終地点。自己意識を通じて歴史を動かし、弁証法的に発展していく普遍的精神。
【そ】
相対的(Relative)――絶対的に対する言葉。ある条件がそなわっていれば成り立つが、他の条件のもとでは成り立たない、という事柄は「相対的」である、といわれ、条件の如何にかかわらず必ず成り立つ事柄は「絶対的」である、といわれる。
例えば、いかなる場合にも人を殺してはいけない、と主張する場合には、それは「人を殺してはいけない」ということを絶対的に主張しているのである。だが、戦争の場合には人を殺してもよい、ということを認めたうえで、しかし平常の場合には人を殺してはいけない、と主張する場合には、それは「人を殺してはいけない」ということを相対的に主張しているのである。
相対主義(Relativism)――絶対主義に対立する。何らかの原理が無制限に成り立つと主張する絶対主義を排除して、どのような原理も無制限には成立たず、それぞれが一定の条件のもとでのみ正しい、と主張する。認識論上では、絶対主義が、無条件的に真なるものを認めるのに対し、相対主義は、そのような真理を認めず、あらゆる真理が条件つきであることを主張する。
属性(attribute)――一般には、物に属している性質、という意味。哲学上厳密には、実体のもっている本質的性質のこと。例えば、デカルトは、物体と精神という二つの実体を考え、前者の属性(本質的性質)を「延長」(ひろがり、空間的大きさ)、後者のそれを「思考」(意識作用)であるとした。この場合に、物体のもつ諸性質(色、におい、など)は偶然的なもので、それが変化しても、物体が物体であることを止めるわけではないが、「延長」は、それがなくなれば物体そのものがなくなる(延長のない物体は存在しないから)、と考えられている。
このような意味で、本質的だと考えられる性質は「属性」とよばれ、そうでない性質(たまたま属している性質)は「偶有性」とよばれる。
存在論(Ontology)――「存在そのもの」について探究する哲学領域。何が、いかに「ある」のか、存在の構造や分類などを扱う。
【た】
対象(subject)――われわれに対立しているもの、という意味。思考または行為の相手として、主体(主観)に対して向う側におかれているもの。
タブラ・ラサ(Tabula Rasa)――ロックが提唱した「白紙説」。人間の心は生まれたとき白紙状態で、経験により知識が書き込まれるとする見方。
ダーザイン(Dasein)――ハイデガーが用いる「そこにある存在」を意味する概念。人間存在の在り方を示す中心的用語。
大陸哲学(Continental Philosophy)――ヨーロッパ大陸で発展した哲学潮流の総称。現象学、実存主義、構造主義、ポスト構造主義などを含む。
脱構築(Deconstruction)――デリダが提唱。テクストや思想の内部にある二項対立や前提を解体し、新たな意味を発見する方法論。
【ち】
抽象(abstract)――事物または観念のある側面、またはある性質だけを選んで取り出すことを抽象という。この場合には、その他の側面または性質はすて去られているわけで、このことを捨象という。「抽象」と「捨象」とは、同じことを二つの側面からみたものである。
例えば、ウマ、ウシ、キツネ、サルなどがいる場合に、われわれはこれらを哺乳類とよぶ。この場合には、卵生ではなく胎生である、子を生んだ雌が乳をのませる、という側面が抽象され、ひづめがある、とか、角がない、とか、木のぼりがうまいなどというような、あるいはウマに、あるいはサルに特有の諸性質は捨象されているのである。
超越(Transcendence)――一般には、ある領域をこえて、その上にたつこと。①例えば、有神論では、世界を創造した神は、世界をこえていると考えられているので、神は世界を「超越」する、といわれる。②認識論では、経験や意識をこえるという意味で、「超越的」という言葉がつかわれる。③実在主義では、人間存在を有限なものと考え、その有限性をこえることを「超越」という。「超越」の対立概念は「内在」。
カントで超越論的(transcendental)という言葉が重要な意味を持つ。
直観(Intuition)――判断や推理によることなく、直接的に対象をとらえる作用。元来感覚や知覚がこのようなものであり、したがって、直観は感性的なものである。だが、感性的直観の他に、より高度な知的直観や、またさらに、神秘的直観を説く哲学説もある。「神をみる体験」などといわれるのは、神秘的直観の一種である。しかし、 感性的直観以外の直観があるかどうかは、きわめてうたがわしい。
超人(Übermensch)――ニーチェが唱えた概念。既存の道徳や価値を乗り越え、新しい価値を創造する高次の人間像。
中庸(Golden Mean)――アリストテレスの徳倫理の鍵概念。過度と不足の中間が徳となる。勇気は臆病と無謀の中間など。
中庸(Doctrine of the Mean)――儒家思想における重要概念。過不足なく調和を図る徳の実践。アリストテレスの中庸とも比較される。
中道(Middle Way)――仏教の根本概念。極端に走ることなく、適切な方法や均衡を保つ修行・生活態度。
忠恕(Zhong-Shu)――孔子が重視した徳目。忠は自分の真心を尽くすこと、恕は他者への思いやりを意味する。
【て】
哲学(Philosophy)――「知を愛する」という語源を持つ学問領域。世界や人間のあり方、知識や存在、価値など根源的な問題を理性的・体系的に探究する。
テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ(Thesis-Antithesis-Synthesis)――弁証法の三段階構造。対立する見解を更なる高次の統合へ導く動的プロセス。
定言命法(Categorical Imperative)――「それが普遍的法則となるように行為せよ」といったカントの道徳律。条件づけられない絶対的な命令。
【と】
徳倫理(Virtue Ethics)――行為の正しさよりも、人間性や美徳の涵養に焦点を当てる倫理理論。アリストテレスの思想に淵源がある。
洞窟の比喩(Allegory of the Cave)――プラトンが示したイメージ。感覚世界は影にすぎず、本当の真実(イデア)は外の光の中にあると説く。
道(Tao / 道)――中国哲学の根本概念。老子・荘子においては、宇宙の根源的な法則・自然そのものを指す。
徳治主義(Rule by Virtue)――儒家思想における政治哲学。法や罰よりも、君子の徳と教化によって人々を治めることを理想とする。
【な】
内在論(Immanence)――存在とはすべて意識に内在しているもののことである、と説く哲学説。 この主張によれば、意識の外に、意織をこえて実在するものは何もないことになる。したがって、真に実在するものは意識だけである、と主張する、意識一元論である。主観的観念論の一種。
ナトゥーラル・カインド(Natural Kind)――自然界に実在するとされる種別やカテゴリー。哲学や科学で「本質」が存在するかどうか論争がある。
【に】
認識(recognition)――知ること。知る働き(認識作用)をも、その結果として獲得されたもの (認識の成果)をも、ともに意味する。知識というのとだいたい同じ意味であるが、あえて区別すれば、認識とは、ある事柄(物または出来事)についての明確な知識を意味する。
認識論(Epistemology)――認織とは何か、正しい認識はどのようにして成立するか、を論じる、学の一分科。
二元論(Dualism)――物質と精神、身体と心など、二つの独立した実体があると考える立場。デカルトの心身二元論が代表例。
二律背反(Antinomy)――同程度に正しい根拠を持ちながら、互いに矛盾する主張。カントの「純粋理性批判」で提示された。
ニヒリズム(Nihilism)――世界や人生に本質的意味や価値がないとする立場。ニーチェはこのニヒリズムを乗り越える「超人」を説いた。
【の】
ノモスとピュシス(Nomos / Physis)――古代ギリシャにおける人為的法や慣習(ノモス)と自然や本性(ピュシス)との区別。ソフィストたちの議論が有名。
【は】
反映論(Reflection theory)――認識とは、意識から独立に存在する客観的実在が、感覚器官をとおして意識内に反映されたものである。と主張する。認識論上の見解。唯物論の認識論は反映論の立場をとる。「模写説」ともいう。
判断(Judgment)――「馬は動物である」、「日本は社会主義国ではない」などのような形式をとって、「馬」、「日本」などのような、それぞれの事物についての一つの知識を表わしているものを、判断という。
判断は、事物の客観的状態に一致している場合には真であり、一致していない場合には偽である(「真理」)。それぞれの判断は、必ず、真か偽かのどちらかである。まだ研究が不十分で真か偽かわからない、という場合もあるが、研究が進めば真か偽かのどちらかになるべきものである。判断は認識のもっとも要素的な形式である。何らかの事物について認識するということは、なによりもまず、その事物について判断することであり、認識の成果は判断の形式で表現される。
汎神論(Pantheism)――一切が神である、と主張する見解。この見解によれば、自然がすなわち神である、ということになるが、しかし、草木や岩石のような個々の自然物がそのまま神であるというのではなく、全体としての、永遠の自然がすなわち神であり、個々の自然物はこの永遠の神の現れであり、また滅びて神に帰ってゆく、というのである。
反証可能性(Falsifiability)――ポパーが唱えた科学理論の基準。理論が誤りである可能性をテストできるかどうかで科学性を判断する。
パラダイム(Paradigm)――クーンが提唱。ある時代や共同体を支える科学的な枠組み。パラダイムシフトとはその枠組みの変革を指す。
バッド・フェイス(Bad Faith / 自己欺瞞)――サルトルの実存主義で用いられる概念。人間が自らの自由を回避して、言い訳や自己欺瞞に陥る状態。
【ひ】
秘密宗教(Secret Religions)――特別の資格をもつものだけが参加をゆるされる、または、このような資格を与えるためにおこなわれる儀式が秘儀(または、密儀)であり、秘儀をおこなう宗教が秘儀宗教とよばれる。
美学(Aesthetics)――美や芸術、感性の働きを研究する領域。芸術作品の本質や美的価値の基準などを論じる。
開かれた社会(Open Society)――ポパーが語った民主的・自由主義的な社会モデル。批判的思考と多元性を尊重する。
【ふ】
普編(General)――多数の事物が共通の質をもっている場合に、それらの事物は同じ名称でよばれることができる。例えば、「机」とよばれる多数の物体が存在しているが、それは、これらの物体がすべて共通の質(「肌」とよばれるのにふさわしい質」をもっているからである。このような場合に、その名称でよばれる一つ一つの物体を物」といい、同じ名称でよばれる物の総体を「普編」または「一般」という。
物質(material)――物質とは、人間の意識から独立に存在している客観的実在であって、われわれの感覚をとおして認識されるものである(この規定を、「物質」の哲学的概念という)。物質の構造に関する自然科学の学説は、時代とともに発展してきたし、今後も発展してゆくであろう。
例えば、デカルトは「延長(ひろがり)」を物質の本質的な規定だと考え、ニュートンは「質量(重さ)」をそれだと考えた。今日の物理学は、質量のある電子や陽電子が質量のないガンマー線(電磁波の一種)に転化する、ということを教えている。このように、物質の構造に関する学説は発展し、物質の自然科学的概念は変ってきたが、しかし、物質の哲学的概念は変える必要がない。電磁波もまた、意識から独立した客観的実在であり、若干の装置を使えば、われわれの感覚をとおして認識される。すなわち、電磁波もまた物質であることは、哲学的概念にしたがえば当然のことなのである。
プラグマティズム(Pragmatism)――「実用主義」と訳される。実証主義の一変種であり、観念論でも唯物論でもなく、その対立をこえている、と自称している(実際には、観念論の一種である)”
真理とは、「役に立つ観念」に与えられる名称である、とするその真理観に特色がある。例えば、三角形の二辺の和は他の一辺よりも長い、という観念(知識) は、拒彩の広場をななめに横切って近道をするとき役に立つ。だから、このような観念は真理とよばれる、というわけである。このような真理観からは、ある観念 (思想)がブルジョアジーには役に立つが、プロレタリアートには有害である、というような場合に、真理の基準がわからなくなる。自分にとって役立つものが自分にとっての真理だ、という相対主義におちいることになる。
分析哲学(Analytic Philosophy)――イギリス・アメリカを中心に展開した哲学潮流。言語分析や論理学を用いて哲学的問題を明確化する。
フッサール的還元(Phenomenological Reduction)――フッサール現象学での方法論。自然的態度を中断し、意識に与えられる現象を純粋に考察する。
る。科学的概念の形成の理論を仕上げることは、たいへんむつかしい研究課題である。
普遍的観念(Universal Concept)――普遍的観念とは、多数の事象に共通して適用できる概念や考え方を指します。
【用語の解説】
・普遍的(ふへんてき)とは、例外なくすべてのものにあてはまること、または多くの事物に共通する性質や概念を意味します。
・普遍概念(ふへんがいねん)とは、単独概念に対し、多数の事物のどれにでも同一の意味で適用しうる概念です。
・普遍化(ふへんか)とは、対象の個性や個別的、特殊性を取り除き、共通する概念や法則などを抜き出すことです。
・普遍的価値とは、どのような場所、時代、状況であっても通用する価値、または何らかの条件で揺るぐことがなく、すべての人に尊重される概念を指します。
【普遍的観念の例】
・人間、本などの概念
・平和、自由、平等、人権などの価値観
・優しさ、思いやりなどの感情
【へ】
弁証法――Dialektik (「弁証法」と訳される)という言葉は、「対話する」という意味のdialegoというギリシャ語に由来する。「対話」には、それぞれ一面的な見解をもつ二人が、対話することを通じて、たがいに相手の見解の一面性を批判しあうことにより、一面性を克服した、より高い、統一的な見解に到達する、という構造がみいだされる。このことから、低い見解を否定して、より高い見解へと発展する思考の歩みが、弁証法とよばれるようになった。さらに、もっと一般的に、自然と社会、およびそれらの反映である人間の意識の、一般的な発展法則を研究する学問が、弁証法とよばれる。
弁証的唯物論(Dialectical Materialism)――マルクスとエンゲルスが発展させた歴史観・哲学。社会や歴史を物質的生産関係の弁証法的な変化として捉える。
ヘドニズム(Hedonism / 快楽主義)――人間の行動原理や価値を快楽に求める立場。エピクロス派などが代表的。
【ほ】
本質(Essence)→「現象」の反意語
ポスト構造主義(Post-structuralism)――構造の安定性を疑い、多義性や不確定性を強調する思想潮流。デリダ、フーコーなどが代表。
【む】
矛盾律(Law of contradiction)――形式論理学の根本法則の一つ、「Pである、と、Pでない、とは同時には成り立たない」または「SはPであり、同時にPでない、ということはない」という形式で表わされる。矛盾律をおかせば、思考は混乱におちいる、と形式論理学は教えている。
無我(Anātman)――仏教の教義。永遠に変わらない「自己(アートマン)」は存在しないとする。輪廻転生の捉え方にも影響。
無為自然(Wuwei)――道家の思想。人為的な作為を捨てて、自然のままに従う態度を理想とする。
【も】
目的論(Teleology)――運動や変化を、目的を目ざしてそれへと進む過程として説明する理論。 全自然を目的論で説明しようとすると、ねずみは猫に食われるために存在し、猫はねずみをとるために存在する、といったような、ばかげた説明におちいることが多い。またそれは、究極目的を神であるとすることによって、有神論になる。自然科学の発展は、目的論による自然の説明(目的論的自然観)を正しくないものとして、打ち破った。
物自体(The thing itself)――カントは、人間の意識にむかって現れ出るもの(「現象」)と区別して、 人間の意識の外にある客観的実在を「物自体」とよんだ。カントは、「物自体」こそが本当の存在である、と考えながら、しかも、これを認識不可能である、と主張した。カントの物自体は、彼以後の時代の哲学者から鋭い批判をうけたが、なかでもヘーゲルは、それは実在しないものである、として、これを「思想物」とよんだ。「思想物」とは、ありもしないものを、勝手に頭のなかででっちあげたもの、という意味である。
【ゆ】
唯物論(Materialism)――観念論(Idealism)に対立する。物質・自然と観念・精神との関係をどう考えるか、という問題は、哲学の根本問題とよばれている。この根本問題にどう答えるかによって、唯物論と観念論とがわかれる。唯物論は、物質・自然が第一次的、根源的であり、観念・精神はこれから派生したもの、第二次的なものである、と主張する。 したがって唯物論は、一切の自然現象を、何らの精神的・観念的な付加物もなしに、自然そのものとして理解することを要求し、また、社会的・歴史的現象をも、 その物質的根源から理解し、説明することを要求する。
唯心論(Idealism)――世界の根源を精神や観念に求める立場。物質世界は精神的実在の二次的な表れとみなされる。
唯名論(Nominalism)――普遍や抽象概念は人間の言語上の名目にすぎず、実体としては存在しないとする中世哲学の一潮流。
ユダイモニア(Eudaimonia)――アリストテレスが説く「善き生」を意味する幸福。単なる快楽でなく、徳を実践する充実した生を指す。
【よ】
四原因説(Four Causes)――アリストテレスの万物説明。質料因、形相因、作用因、目的因の4種類の原因で事物を理解する。
【ら】
ライプニッツのモナド(Monad)――宇宙を構成する最小単位としての「単子」。それぞれが完結した精神的実体だが、神による予定調和で連動する。
【り】
理性(reason)――人間がものを考える能力、人間の認識する能力は、感性と理性とにわけられる。「感性」とは、感覚器官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)をとおして、外界の刺激(光、音、におい、など)を受けとる能力であり、感性が受けとったものが感覚 (または印象)である。したがって、感性は受動的な能力である。
これに対して、理性は、感性が受けとったものに能動的に働きかけ、これを分析したり、比較したり、総合したりすることによって、感覚よりもいっそう深く、かつ全面的に事物を認識する能力である。このようにすることが、普通、われわれが 「考える」とよんでいる働きであり(→「思考」)、この能力によって、概念がつくられ、判断推理がおこなわれる。
理神論(Deism)――神の存在を認め、神を世界の原因であるとするが、しかし、神を人格的存在とみなさず、したがってまた、奇蹟をおこなうような気まぐれなものと認めず、神をきわめて合理的に解訳し、世界はいったん創造されたのちは神の支配をはなれてそれ自身の法則にしたがって運動すると主張する。ニュートンは典型的な理神論者であった。
倫理学(Ethics)――人間の道徳的行為に関する学問。善とは何か、ということの基準を主観的なものの中に求めて、道徳的意識とか動機とかを重視する傾向の倫理学と、これを客観的なものに求めて、社会において成立している人間関係のうちに道徳の具体的な現れを見いだし、その中から道徳の基準を確立しようとする傾向の倫理学とがある。
リヴァイアサン(Leviathan)――ホッブズの著作題名および国家を巨獣になぞらえた概念。自然状態の混乱を防ぐために絶対的権力が必要と論じる。
論理実証主義(Logical Positivism)――ウィーン学団が中心。科学的に検証可能な命題のみを有意味とし、形而上学を排除しようとする立場。
理想国(The Republic)――プラトンの著作。正義とは何かを問い、哲人王の統治する国家像を提示。
【れ】
礼(Li)――孔子の倫理において、社会秩序や共同体を保つための儀礼や形式。その内面化が重要とされる。
【ろ】
論理(logic)――物事のすじ通、道理。そこからさらに、ものを考えたり、議論したりする場合のすじ道を意味するようになった。
論理学(Logic)――「論理」を研究する学問。すなわち、われわれが正しく考えようとするとき、したがわなければならない法則や形式を研究する学問。
ロゴス(logos)――元来は「ことば」という意味のギリシャ語。ことばの集ったものは「話」である。ある事柄について話をすれば、それに説明を与えることになる。こみいった事柄を説明するとは、「すじ道」をとおすことである。こうして、 ロゴスとは、物ごとのすじ道、道理を、したがって「論理」を意味するようになった。